夢と記憶の東洋古典。荘子です。 さて、今日はついでに、 クリストファー・ノーランと荘子を。 ノーランの『インセプション(Inception)』がボルヘスの『円環の廃墟(The Circular Ruins)』や、道家の『列子』の夢の中で鹿の所有権をめぐる裁判『蕉鹿の夢(しょうろくのゆめ)』によく似ているという話をしました。 参照:インセプションと荘子とボルヘス。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5074 Inception - Paprika http://www.youtube.com/watch?v=HdbHmAMo6xY アイディアを取り上げるという観点からすると、同じく荘子の思想の影響が濃厚な円城塔の『道化師の蝶』ともよく似ていまして、現在進行形のタオイズムとしてオススメです。 参照:『道化師の蝶』と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5111 『インセプション』と同じテーマを描く『列子』の「蕉鹿の夢」の後に華子という人が「忘れてしまう病」にかかってしまうという話があります。 『宋陽里華子、中年病忘、朝取而夕忘、夕與而朝忘。在塗則忘行、在室則忘坐。今不識先、後不識今。闔室毒之。謁史而卜之、弗占「謁巫而禱之、弗禁。」謁醫而攻之、弗已。魯有儒生、自媒能治之、華子之妻子以居?之半請其方。儒生曰「此固非卦兆之所占、非祈請之所禱、非藥石之所攻。吾試化其心、變其慮、庶幾其瘳乎!」於是試露之而求衣、饑之而求食。幽之而求明。儒生欣然告其子曰「疾可已也。然吾之方密傳世、不以告人。試屏左右、獨與居室七日。」從之。莫知其所施為也、而積年之疾、一朝都除。華子既悟、迺大怒、黜妻罰子、操戈逐儒生。宋人執而問其以。華子曰「曩吾忘也、蕩蕩然不覺天地之有无。今頓識、既往數十年來、存亡得失、哀樂好惡、擾擾萬緒起矣。吾恐將來之存亡得失哀樂好惡之亂吾心如此也、須臾之忘、可復得乎?」子貢聞而怪之、以告孔子。孔子曰「此非汝所及乎!」顧謂顏回記之。』(『列子』周穆王篇) →宋の陽里という所に華子という人がいた。彼は「忘れてしまう病」にかかった。朝起きたことを夕方には忘れ、夕方のことを次の朝には忘れてしまう病だった。道を歩いては歩いていることを忘れ、部屋で座っていても座っていることすら忘れてしまう。先の事を考えられず、時が経つ度に現在の記憶が抜け落ちてしまう。華子の妻子は彼のことを心配してあらゆる手を尽くした。占い師を呼んでも何の方策も見いだせない。祈祷を頼んでもまじないは効かない。医者を呼んでも効能はあらわれない。途方に暮れていると、魯の国で儒学を学んだ者が華子の病を治せると言い出してきた。彼が言うには「この病は占いも祈祷も薬も鍼も効かない。この者の心の変化を促してみよう」という。試しに儒者が華子を裸にしてみると、華子は着物が欲しいとせがみ、食べ物を与えないでいると食べ物が欲しいとせがむ。暗い部屋に閉じこめてみると、灯りが欲しいと言い出した。儒者は治癒の見込みがあるとして、華子の息子にそのことを告げた。「ただし、この方法は門外不出の秘法なので、決して他の者に見せるわけにはいかぬ。華子と私の二人きりで七日間家に籠もることになる」。果たして七日後、華子の忘れる病は完治した。何をしたかは分からないが、積年の病がすっかり去ってしまっていた。ところが、元に戻った華子は、急に怒り出し、妻と息子を殴りつけ、病を治してくれた儒者に矛を持って追い回し始めた。訳も分からないままやっと思いで華子を縛り付けて、なぜ怒るのかと問いただすと華子は恨めしげにこう言った。「俺が病にかかっていたとき、天地も分からないくらい心が落ち着いていたものだ。ところが病が治った途端、過去数十年の存亡や得失、喜怒哀楽の感情が一気に吹き出して、その記憶に飲み込まれそうな勢いだ。これから先、俺は死の恐怖と、悪しき記憶の濁流にに苛まれながら生きていくのだろう。忘却という一瞬の安寧も得られぬ今の境遇を嘆き、俺はあのような真似をしたのだ。」子貢はこの話を聞いて不思議に思い、孔子に話してみると孔子は「お前には理解できないだろう。」とおっしゃった。顔回がそのことを克明に思い出して記録したものがある。 若年性アルツハイマーの記録とも読めますが、私が知るかぎり、世界最古の「フラッシュバック」についての記録が『列子』のこれです。嫌な思い出がふとした瞬間に蘇って、声をあげたくなるときのあれです。太宰治の『斜陽』の冒頭に描かれているあれです。 参照:フラッシュバック (心理現象) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF_(%E5%BF%83%E7%90%86%E7%8F%BE%E8%B1%A1) 列子の人造人間は蝶の夢をみるか? http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5088 これは、クリストファー・ノーランの出世作、『Memento』と対比してみてください。『列子』の周穆王篇を読むだけでも、ノーランが道家思想に入れ込んでいるのは見て取れると思います。『荘子』は露骨にそうですが、意識や記憶にまつわる主題での道家の着眼は畏敬の念さえ抱きます。 参照:「メメント」予告編 http://www.youtube.com/watch?v=91QGubnDHSs 西洋人から見ると斬新なようであっても、 東洋人から見るとありふれていることもありますよ。 参照:アップル本社の新社屋「マザーシップ」完成予想CG集 &ジョブズ市議会プレゼン http://japanese.engadget.com/2011/08/13/apple-mothership/ Wikipedia 福建土楼 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E5%9C%9F%E6%A5%BC 参照:「The Zen of Steve Jobs」と荘子。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5121 ・・・ちなみに、私が知るかぎり日本で初めて「自分はタオイストです」と告白した記録を残しているのは、兼好法師でありますが、 ≪ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。文は、文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。(『徒然草』第一三段)≫ 私が知るかぎり日本で初めて「これ」について記録を残しているのも、彼です。 ≪名を聞くより、やがて面影はおしはからるゝ心地するを、見る時は、又かねて思ひつるまゝの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この頃の人の家のそこ程にてぞありけむと覺え、人も今見る人の中に思ひよそへらるゝは、誰もかく覺ゆるにや。またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひいでねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。 (『徒然草』第七一段)≫ →ある人の名前を聞くと、自然にその人の顔を想像することがあるが、実際に会ってみると想像していた顔ではなかったりする。昔話を聞いているのに、昔のできごとをまるで今起きたかのように想像したり、登場人物を現在の身近な人に置き換えていたりすることがある。ちょうど今、人が話している状況や目に見える光景が「いつかどこかでこんなことがあった」と思える時があって、いつだかは思い出せないが確かに体験した記憶がある、などというときがある。これは私だけなのかもしれないが。 小さな正夢、「デジャ・ヴ(deja vu)」です。 参照:Wikipedia 既視感 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A2%E8%A6%96%E6%84%9F The Matrix - Deja vu http://www.youtube.com/watch?v=z_KmNZNT5xw 『夢飲酒者、旦而哭泣。夢哭泣者、旦而田獵。方其夢也、不知其夢也。夢之中又占其夢焉、覺而後知其夢也。且有大覺而後知此其大夢也、而愚者自以為覺、竊竊然知之。君乎、牧乎、固哉。丘也與女、皆夢也、予謂女夢、亦夢也。是其言也,其名為弔詭。萬世之後,而一遇大聖知其解者,是旦暮遇之也。』(『荘子』斉物論 第二) →夢の中で酒を飲んでいた者が、目覚めてから「あれは夢だったのか」と泣いた。夢の中で泣いていた者が、夢のことを忘れてさっさと狩りに行ってしまった。夢の中ではそれが夢であることはわからず、夢の中で夢占いをする人すらある。目が覚めてから、ああ、あれは夢だったのかと気付くものだ。大いなる目覚めがあってこそ、大いなる夢の存在に気付く。愚か者は自ら目覚めたとは大はしゃぎして、あの人は立派だ、あの人はつまらないなどとまくし立てているが、孔子だって、あなただって、皆、夢の中にいるのだ。そういう私ですら、また、夢の中にいるのだがね。こういう奇妙な話が分かる聖人に会えることは本当に希で、千年に一人でもいたら幸運だろうよ。 参照:Matrix-Inception Trailer deja vu http://www.youtube.com/watch?v=y3sQwN0s0us 参照:『マトリックス』と胡蝶の夢。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5102 荘子と『水槽の脳』。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5075 今日はこの辺で。 |